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日蓮正宗創価学会時代までは本当に戸田城聖先生のおっしゃる通りに実践すれば、生活にその結果が出ていた。本当の意味で正統な日蓮仏法を伝える ため 講義 論文を記しておきたいと思う。
05 . May
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09 . October
法華経譬喩品にいわく
「爾の時仏、
舎利弗に告げたまわく、吾れ今、天、人、沙門、婆羅門等の大衆の中に於いて
 説く。我昔
曾て二万億の仏の所に於いて、無上道の為の故に、常に汝を教化す。汝亦
長夜に我に随って受学しき。


我方便を以って、汝を引導せしが故に、我が法の中に生ぜり。舎利弗、我昔、汝をして
仏道を志願せしめき。汝今悉く忘れて、便ち自ら己に滅度を得たりと謂えり。



我今還って、汝をして、本願所行の道を憶念せしめんと欲する故に、諸の声聞の為に、
是の大乗経の妙法蓮華、教善薩法、仏所護念と名づくるを説く。



舎利弗、汝未来世に於いて、無量無辺不可思議劫を過ぎて、若干千万億の仏を供養し
正法を奉持し、菩薩所行の道を具足して、当に作仏すること得べし」(妙法蓮華経並開結198ページ)



化城喩本にいわく、
「是の十六の菩薩沙弥は甚だ為れ希有なり。 諸根通利して智慧明了なり。
己に曾て、無量千万億の諸仏を供養し、諸仏の所に於いて、常に梵行を修し、
衆生に開示して、其の中に入らしむ。汝等皆、当に数数親近して、之を供養すべし。
所以は何ん。


若し声聞、辟支仏、及び諸々の菩薩、能く是の十六の菩薩の所説の経法を信じ、
受持して毀らざらん者、是の人は皆、当に阿耨多羅三藐三菩提の如来の慧を得べし。
一一の菩薩の所化の、六百万億那由侘恒河沙の衆生は、世世に忌まれる所、菩薩と倶にして」
(妙法蓮華経並開結338p)
 
 
如来寿量品にいわく、
 
「諸の善男子、如来諸の衆生の、小法を楽える徳薄垢重の者を見ては、是の人の為に、我少く
して出家し、阿耨多羅三藐三菩提を得たりと説く。然るに我、実に成仏してより己来、久遠
なること斯くの若し」  (同499p)

自我偈にいわく、
「我仏を得てより来 経たる所の諸の劫数 無量百千万 億載阿僧祇なり」


法華経のごく一部ではあるが、およそ釈尊一代の仏教は、生命の前世、現世および来世
のいわゆる三世の生命を大前提として説かれているのである。ゆえに、仏教から三世の生命
の生命観をぬききり、生命は現世だけであるとしたならば、仏教哲学はまったくその根拠を
うしなってしまうと考えられるのである。


しこうして、各経典には、生命の遠近、広狭によって、その教典の高下浅深がうかがわれるのである。


更に、日蓮大聖人にあっても、三世の生命観の上に立っていることはゆうまでもない。
ただ、釈尊よりも大聖人は、生命の存在をより深く、より本源的に考えられているのである。


開目抄にいわく。
「儒家には三皇・五帝・三王・此等を天尊と号す・・・・・・貴賎・苦楽・是非・得失等は皆
自然等云々。かくのごとく巧に立つといえども・いまだ過去・未来を一分もしらず玄とは黒なり
幽なりかるがゆへに玄という但現在計りしれるににたり」

またいわく
「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責めを堪えざるゆへ、久遠大通の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善につけ悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」

選時抄にいわく、
「今の人人いかに経のままに後世をねがうともあやまれる経経のままにねがえば得道もあるべからず、しかればとて仏の御とがにはあらじとかれて候」

かかる類文は、あまりに繁多であり、三世の生命ないし仏法はとうてい考えられないのである。
これこそ、生命の実相であり、聖者の悟りの第一歩である。

しかしながら、多くの知識人はこれを迷信であるといい、笑って否定するであろう。
しかるに、吾人の立場からみれば、否定する者こそ自己の生命を科学的に考えない、うかつさを
笑いたいのである。

 およそ、科学は因果を無視して成り立つであろうか、宇宙のあらゆる現象は、かならず原因
と結果が存在する。

生命の発生を卵子と精子の結合によって生ずるというのは、たんなる事実の説明であって、
より本源的に考えたものではない。

あらゆる現象に因果があって、生命のみは偶発的にこの世に発生し、死ねば泡沫のごとく
消えてなくなると考えて平然としていることは、あまりにも自己の生命にたいして無頓着者
といわねばならない。

いかに自然科学が発達し、また平等をさけび、階級打破をさけんでも、現実の生命現象は、とうてい、これによって説明され、理解されうるものではない。

われわれの眼前には人間あり、ネコあり、イヌあり、トラあり、すぎの大木があるが、これらの生命は同じか、違うか。また、その間の関連はいかん。

同じ人間にも、生まれつきの頭の良しあし、美人と不美人、病身と健康体などの差があり、
いくら努力しても貧乏人である者もおれば、また貪欲や嫉妬に悩む者、悩まされる者などを、
科学や社会制度ではどうすることもできないであろう。

かかる現実の差別には、かならずその原因があるはずであり、その原因の根本的な探求なしに
解決されるわけがないのである。

ここにおいて、三世の生命を説くからといって、われわれの霊とか魂とかゆうものがあって、現在を支配し、さらに不滅につづくということを承認しているものではないことを明確にしておく。
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08 . October
生命の不可思議

わが国の神道が、超国家主義、全体主義に利用されて、ついには、無謀なる太平洋戦争にまで
発展していったときに、私は恩師牧口常三郎先生および親愛なる同志とともに、
当時の宗教政策のはなはだ非なることえを力説した。


すなわち、日本国民に神社の礼拝を強制することの非論理的、非道徳的ゆえんを説いたので
あるが、そのために、昭和十八年の夏、弾圧されて、爾来二か年の拘置所生活を送ったので
あった。


冷たい拘置所に、罪なくとらわれて、わびしいその日を送っているうちに、思案は思案を
呼んで、ついには人生の根本問題であり、しかも、難解きわまる問題たる「生命の本質」
につきあたったのである。


「生命とは何か」「この世だけの存在であるのか」「それとも永久につづくのか」
これこそ、永遠のナゾであり、しかも古来の聖人、賢人と称せられる人々は、各人各様に
この問題の解決を説いてきた。


不潔の拘置所には、シラミが好んで繁殖する。春の陽光を浴びて、シラミは、のこのこと
遊びにはい出してきた。私は二匹のシラミを板の上に並べたら、かれらは一心に手足を
もがいている。


まず、一匹をつぶしたが、ほかの一匹は、そんなことにとんちゃくなく動いている。
つぶされたシラミの生命は、いったい、どこへ行ったのか。永久にこの世から消えうせた
のであろうか。


また、さくらの木がある。 あの枝を折って、かびんに差しておいたら、やがて、つぼみ
は花となり、弱々しい若葉も開いてくる。 このさくらの枝の生命と、元のさくらの木の
生命とは、同じものであるだろうか。 生命とは、ますます不可解なものである。


その昔、生まれて間もない一人の娘が死んで、悩み苦しみぬいたことを思いだしてみる。
そのとき、自分は娘に死なれて、こんなに悩む、もし妻が死んだら(その妻も死んで自分
を悲しませたが)・・・・・もし親が死んだら(その親も死んで、私はひじょうに泣いた
のであったが)・・・・・・と思ったときに、身ぶるいして、さらに自分自身が死に直面
したらどうか・・・・・・・と考えたら、目がくらくらするのであった。


それ以来、キリスト教の信仰にはいったり、または阿弥陀経によったりして、たえず道
を求めてきたが、どうしても生命の問題にかんして、心の奥底から納得するものは、何
ひとつえられなかった。

その悩みを、また独房のなかでくり返したのである。元来が、科学、数学の研究に興味を
もっていた私としては、理論的に納得できないことは、とうてい信ずることはできなかった。


そこで、私は、ひたすらに法華経と日蓮大聖人の御書を拝読した。 そして、法華経の不思議
な句に出合い、これを身をもって読みきりたいと念願して、大聖人の教えのままにお題目を
唱えぬいていた。

唱題の数が二百万べんになんなんとするときに、私はひじょうに不思議なことにつきあたり、
いままでかつて、はかり知りえなかった境地が眼前に展開した。よろこびにうちふるえつつ、
一人独房のなかに立って、三世十方の仏、菩薩、一切の衆生にむかって、かくさけんだので
ある。


遅るること五年にして惑わず、先だつこと五年にして天命を知りたり。
かかる体験から、私はいま、法華経の生命の本質について述べたいと思うのである。







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