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日蓮正宗創価学会時代までは本当に戸田城聖先生のおっしゃる通りに実践すれば、生活にその結果が出ていた。本当の意味で正統な日蓮仏法を伝える ため 講義 論文を記しておきたいと思う。
26 . April
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08 . October
生命の不可思議

わが国の神道が、超国家主義、全体主義に利用されて、ついには、無謀なる太平洋戦争にまで
発展していったときに、私は恩師牧口常三郎先生および親愛なる同志とともに、
当時の宗教政策のはなはだ非なることえを力説した。


すなわち、日本国民に神社の礼拝を強制することの非論理的、非道徳的ゆえんを説いたので
あるが、そのために、昭和十八年の夏、弾圧されて、爾来二か年の拘置所生活を送ったので
あった。


冷たい拘置所に、罪なくとらわれて、わびしいその日を送っているうちに、思案は思案を
呼んで、ついには人生の根本問題であり、しかも、難解きわまる問題たる「生命の本質」
につきあたったのである。


「生命とは何か」「この世だけの存在であるのか」「それとも永久につづくのか」
これこそ、永遠のナゾであり、しかも古来の聖人、賢人と称せられる人々は、各人各様に
この問題の解決を説いてきた。


不潔の拘置所には、シラミが好んで繁殖する。春の陽光を浴びて、シラミは、のこのこと
遊びにはい出してきた。私は二匹のシラミを板の上に並べたら、かれらは一心に手足を
もがいている。


まず、一匹をつぶしたが、ほかの一匹は、そんなことにとんちゃくなく動いている。
つぶされたシラミの生命は、いったい、どこへ行ったのか。永久にこの世から消えうせた
のであろうか。


また、さくらの木がある。 あの枝を折って、かびんに差しておいたら、やがて、つぼみ
は花となり、弱々しい若葉も開いてくる。 このさくらの枝の生命と、元のさくらの木の
生命とは、同じものであるだろうか。 生命とは、ますます不可解なものである。


その昔、生まれて間もない一人の娘が死んで、悩み苦しみぬいたことを思いだしてみる。
そのとき、自分は娘に死なれて、こんなに悩む、もし妻が死んだら(その妻も死んで自分
を悲しませたが)・・・・・もし親が死んだら(その親も死んで、私はひじょうに泣いた
のであったが)・・・・・・と思ったときに、身ぶるいして、さらに自分自身が死に直面
したらどうか・・・・・・・と考えたら、目がくらくらするのであった。


それ以来、キリスト教の信仰にはいったり、または阿弥陀経によったりして、たえず道
を求めてきたが、どうしても生命の問題にかんして、心の奥底から納得するものは、何
ひとつえられなかった。

その悩みを、また独房のなかでくり返したのである。元来が、科学、数学の研究に興味を
もっていた私としては、理論的に納得できないことは、とうてい信ずることはできなかった。


そこで、私は、ひたすらに法華経と日蓮大聖人の御書を拝読した。 そして、法華経の不思議
な句に出合い、これを身をもって読みきりたいと念願して、大聖人の教えのままにお題目を
唱えぬいていた。

唱題の数が二百万べんになんなんとするときに、私はひじょうに不思議なことにつきあたり、
いままでかつて、はかり知りえなかった境地が眼前に展開した。よろこびにうちふるえつつ、
一人独房のなかに立って、三世十方の仏、菩薩、一切の衆生にむかって、かくさけんだので
ある。


遅るること五年にして惑わず、先だつこと五年にして天命を知りたり。
かかる体験から、私はいま、法華経の生命の本質について述べたいと思うのである。







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